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小金井市内を東西に横断している【武蔵野台地-国分寺崖線】により市内南部は特に段差のある地形となってます。
市の境界西端から東端にかけて多くの坂が点在しています。
ここではその中で、地図上でも表記されている【坂】をご紹介します。
※参考文献・資料 「小金井の坂」小金井市建設部管理課
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□ くらぼね坂
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「今の貫井北町や小平、国分寺方面から府中方面に行くこの道は、急坂の東が切り立つような赤土の崖で,雨の降る時などは馬も滑って歩くことができなかったといわれる。鞍(馬)でも骨を折るとか,「くらぼね」は断崖の連続した段丘崖を意味するともいわれ,諸説がある」
東経大東側、貫井神社の西.国分寺市との境界。 |
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□ 三楽の坂
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□ 弁車の坂
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□ 平代坂
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「万延か文久(一八六○〜六四年)のころ、坂の東側に住む梶平太夫が、玉川上水の分水を使って水車を回したので,皆が平太坂と呼んでいた。いつのころからか、これが平代坂といわれるようになった。」
市第二庁舎西側を下り薬師通りへ。 |
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□ 念仏坂
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梶屋東側下り薬師通りへ。昔,江戸街道から薬師通りに通じ、農民が便利にしていたこの道は狭く両側から笹や樹木が生い茂っていた。坂の中段東側に墓地があり,,人はいつした念仏を唱えながら通ったので,この名がある。 |
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□ なそい坂
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□ 質屋坂
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「この坂道は、埼玉県志木から府中へ商人が往来した志木街道の旧道で、この街道では最も険しい坂であった。
この坂に沿って,幕末から明治の初めにかけて,当時の下小金井村の星野家が開いていた質屋があったので、質屋坂と呼ばれるようになった。また、坂が鎌の形に似ているところから,かま坂ともいわれている。
」 前原坂上より斜めに下る。 |
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□ 妙貫坂
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小金井街道中程から南東へ斜めに下がる。前原坂上交差点はその昔「六道の辻」といって、六本の道が交差していた。その内の一本がこの道で,畑や水田の耕作のための農道であった。急な坂の東側に墓地があり、その南側,現在のカシ並木があるあたりに明治中頃から大正の初め頃まで、「妙観(貫)」といわれる僧が「庵」をつくり住んでいたのが由来といわれる。 |
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□ 車屋の坂
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□ 白伝坊の坂
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「万延(一八六○年ごろ)から明治初めにかけ,この坂の中段、西側にある墓地に「白伝」という僧が住みついていた。農家を托鉢に回ったといわれ,いつしか白伝坊の坂と呼ばれるようになった。
昭和十五、六年ごろの墓地整理で,炉跡、井戸などが見つかり、小さな白伝の碑もあったといわれる。
」
連雀通り。一小南東から下る。はけの道を突っ切り野川へ。
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□ おお坂
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連雀通りからはけの森美術館北側をゆるやかに南西へ下る。はけの道へ。 |
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□ ムジナ坂
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「昔,この坂の上に住む農民が田畑に通った道で,両側は山林の細い道であった。
だれということなく、この道をムジナ坂といい,暗くなると化かされるといって、怖がられ遠回りをした。」
連雀通り。ケーヨーD2東側をクランク状に階段で坂下へ。はけの道に出る。 |
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□ 二枚橋の坂
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多摩川線沿い。はけの道へ。昔,坂の半ばあたりから東へ二枚橋に通じる道であったので,この名がある。二枚橋伝説:かなわぬ恋の末,庄屋の息子と山守の娘が野川に身を投げ,その例が大蛇に化けて幻の橋となって人々を惑わした。これを哀れんだ庄屋が大木を挽き割り,二枚並んだ立派な橋を作って供養したといわれている。 |
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